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「李良枝」という芥川賞作家2015年09月19日 17時02分

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*********** 姫リンゴ ***********
 庭の姫リンゴ「アルプス乙女」が赤く色づいてきました。
 昨年に比べると果実の個数が少ないように思います。  先日、葉が混み合っていたので剪定をしました。  枝先に小さな毛虫が多く付いていたり、葉が丸まって中に虫が入っていたりしています。リンゴの木は虫が付きやすいようです。
画像2(姫リンゴ)

画像1(姫リンゴ)

*********** 若くして亡くなった芥川賞作家 ***********
 先月末、教え子の女性から電話がありました。直接教えたことはありませんが、彼女は、芥川賞作家の「李良枝」と同級で、大の親友です。現在、李良枝の文学碑を設立する委員会を立ち上げ、委員長として活躍しています。
 9月18日に、富士吉田の富士五湖文化センターで「李良枝」と親交が深かった芥川賞作家の「玄湯宇宗久」氏の講演会が開催されるという案内の電話でした。その後、パンフレットやチケットを送ってくれました。
画像3(玄侑宗久講演会)

 私自身は理系の人間で、文学から離れたところにいましたが、高校時代の友人の影響もあり、10代から20代の頃には、特に、意識的に小説をよく読みました。単行本や全集だけでなく純文学誌の「新潮」、「群像」など、時折買って読んでいました。
 最近、小説を読むことが少なくなり、教え子からの電話で芥川賞作家の「玄侑宗久」氏と聞いても名前すら知らず、ましてや彼の小説など読んだことがありませんでした。早速、アマゾンで電子書籍になっている作品を購入し、一作品だけでしたが読んでみました。
画像4(玄侑宗久講演会)

 講演会当日(18日)、時間に余裕を見て出かけたのですが、夕方の時間帯で道路が混んでいて、開式行事の途中から会場に入りました。
 玄侑氏の講演は午後7時から1時間半あり、李良枝の生い立ちをたどり、作品に書かれた彼女の文章を引用しつつ、彼女の内面を丁寧に紹介されていました。

 李良枝(日本名:田中淑枝)は、私が初めてクラス担任をした生徒の一人です。教員になって2年目でした。
 最初の年は、李良枝のいる学年に所属しましたが、授業で教えることはありませんでした。2年目、彼女が3年になったときに、クラス担任をしました。4月の始業式後から退学をしたいと云っていたので、何度か話し合いました。在日韓国人だということは同僚から聞いていましたが、本人はそのことを一言も言わず、ただ、退学したいの一点張りでした。
 退学して何をするのかと聞くと、2年の時に修学旅行で行った京都の旅館に住み込みで働くと云っていました。旅館の主人の了解も得ているので大丈夫だとも話していました。口約束だけで、受け入れてくれる相手の方がどんな方なのかも分からずに、退学を認めるわけにゆかないと云うと、旅館の主人が京都から学校へ来てくれました。青少年の育成に関わる役職など多くの肩書きのある方で、信頼が出来る方のように見受けました。
 5月、6月になると、学校を休みがちになり、家庭訪問をしたり、登校したときには私のいる物理の準備室に呼び出したりして、幾度となく話し合いをしました。あるとき、準備室に入ってきて、私が話し始める前に、ニコニコしながら「先生は私を退学させたくないんでしょう」と云いながら椅子に腰掛けました。私の思っていることを見透かしているようでした。私は彼女が退学したいというのなら、それも仕方がないことかと思っていました。ただ、どんな環境下にあっても勉強だけは続けて欲しいと思っていたので、京都へ行っても、必ず高校へ行くよう話したように思います。
 私は京都府北部の小さな町の生まれで、高校卒業するまでいたところです。在日韓国人二世の同級生も何人かいましたし、高校には「朝鮮文化研究会」というようなサークルもありました。 京都の高校へ行けば彼女の居場所が見つかるのではないかとという淡い期待も持っていました。
 7月に入り、正式に退学届を出して、彼女は京都の旅館へ行きました。それ以後、毎年2,3月頃になると、私の下宿にやって来て、近況を報告してくれました。最初の年は、考えていた以上に、旅館での仕事が多く、自分の時間が持てないと云っていました。2年目に来たときには、京都の高校へ編入することが出来そうなので、成績証明書などの書類が欲しいと云っていました。退学して3年目に京都府立鴨沂高校に編入しています。そこで日本史の先生と出会ったことが彼女に大きな影響を与えることになります。
 編入してしばらく経ってから、私の下宿に来たときは、これまでの彼女と違い、生き生きとしていました。日本史の先生から課題が出され、そのレポートを書くために色々と調べているようでした。課題の内容やレポートの内容について詳しく述べることはありませんでしたが、それがどのようなものであったかは、ある程度想像が出来ました。その頃、東京に行って「考える高校生」を出版していた高文研の編集担当に会ったり、対馬へ行ったりしています。これらの行動は、課題を出していた日本史の先生の影響ではないかと思います。退学して数年間、毎年私のところへやって来て話をしていました。やって来るのは、決まって夕食後の7時頃で、話し込んでいると時間の経つのも忘れ、0時をまわることもたびたびありました。彼女の実家は月江寺の近くで私の下宿からそれほど遠くないところにありました。話し終えて真夜中に一人で帰させるのは、さすがに私も心配になり、自宅まで送っていったりしました。
 彼女が最後に下宿に来たのは、早稲田大学へ入学が決まったときでした。それ以後、彼女には一度も会っていません。その後も何度か富士吉田にやって来ていますが、私の転勤などもあり、会う機会がなくなってしまいました。
 数年間、彼女に関わって来ましたが、その中で、在日韓国人という言葉は、彼女の話の中には一度も出てきませんでした。私は彼女が言い出すのを待っていましたが、常に、客観的に話をするだけだったので、時々話がかみ合わなくなることもありました。
 私の転勤と同時に、彼女自身も早稲田を1学期で退学し、韓国に渡っています。数年後、ソウル大学に入学し、在学中に書き上げた「由煕(ユヒ)」という小説で、ソウル大学を卒業した翌年に第100回芥川賞を受賞しています。
 37歳の若さで亡くなりました。亡くなってから今年で23年経っています。四半世紀経った今でも、講演会の案内の電話をくれた彼女のように、多くの方々が李良枝のことを身近に感じています。

画像5(玄侑宗久講演会)

*********** キノコから基準値を超える放射性セシウム検出 ***********
 9月18日付の朝日新聞の県内版に載っていた記事です。
 2011年3月11日以降、富士山の麓では、キノコから基準値を超える放射性セシウムが検出されています。地表に降り注いだ放射性セシウムがキノコに濃縮されています。今後、何十年もの間、このような状況が続くと思われます。一旦、原子炉内から出てしまった放射性物質は、回収の手立てがなく、地球全体へと広がってしまいます。
画像6(富士北麓のキノコから放射性セシウム検出)



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