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春菊、水菜の種まき2017年09月16日 22時56分

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*********** 春菊、水菜の種まき ***********
 台風接近により、一日中、霧雨が降っていました。気温も低く肌寒いです。
 雨が本降りになる前に、春菊と水菜の種を蒔くことにしました。種は昨年の残り種です。
画像1(種袋「春菊」・「水菜」)

 畑が真四角ではないため、端の方の畝は幅が一定しません。そのためキャベツや白菜など、多くの苗を植え付ける場所としては不向きです。
 細長い三角形の畝2つに春菊と水菜の種を蒔きました。春菊は使い道が限られていますが、水菜の方はサラダや鍋物など使い道が広いので多めに種を蒔きました。
画像2(「春菊」・「水菜」の播種)

*********** 嘗ての同僚の著書 ***********
 昼過ぎ、郵便受けに、懐かしい名前が記された厚い封筒が入っていました。中には本人が書いた本が入っていました。
画像3(菁莪の人)

 本を読み始めるときに、先ず、「はじめに」とか「あとがき」を読みます。「あとがき」を読んで、著者の現在の様子を少し知ることが出来ました。私が定年退職した一年後に退職し、その後年賀状のやりとりをしていましたが、2年前の年賀状に、「来年から新年の挨拶は遠慮する」との添え書きがあり、昨年から年賀状を出さなくなりました。彼の性格から、賀状での紋切り型の挨拶は好まないだろうと思っていました。
 届いた本のあとがきを読んで、2年前に癌の告知を受け、手術、抗がん剤治療をしていたことを知りました。賀状の取りやめは、そんな状況の中でのことだったのかと思います。
 著書の「森嶋弥十郎基進」と言う人物について、昭和63年に編纂された都留市史に詳しく記述されています。
 以下は市のHPにあった紹介文です。
 ”森島弥十郎は、諱は其進、字は子与、弥十郎は通称で桂園と号した。宝暦11年(1761)下谷村の絹問屋森島利八の長男として生れ、安永7年(1778)18歳のとき、父に請うて江戸に遊学し大学頭林家の門に入り昌平校に学んだ。
 天明2年(1782)3月、父の失踪により郷里に帰って家業を継ぎ、商売は盛んになり富を得たが、学問の道を歩むために家を弟の理八にゆずり塾舎「朋来園」を開いた。
 其進は、下天神町の天満宮を尊崇し、社殿、神輿を造営寄進し、門下生たちも師にならって同社へ二基の石灯籠を奉納した。其進は、学友雲室が描いた「菅公像」に賛を書き、また、自ら「天満大自在天神」の神号を墨書し、「藤原其進」と署名している。
 文化11年(1814)甲府勤番支配松平定能のもとで「甲斐国志」の郡内地区編さん主任を命ぜられ、私財を投じて完成させた。
 文政4年(1821)10月13日、多くの門下生に看護されながら、学者、教育者としての生涯を終えた。享年60歳であった。


画像1(都留市史)


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